はじめに

嘘のない教育をしよう,とわたしたち は決意しました。 それは何か派手で特別なことをするわけでも,「奇跡」を起こすことを意味するわけでもありません。ごくまじめに,ごくまっとうな姿勢で‘普通’に教育をしようということです。 先の見通しのきかないこの時代の中で,やはりほんとうに身体に良いものを食べ,安全な住居に暮らしたい。そして信頼できる人たちに子どもの教育を任せたいと思いませんか。しかしこの一見心地よい表面的な広告言葉の氾濫する時代の中で,皆さんは不安にならないでしょうか。 たとえば,無農薬を称する食品が本当に農薬を使っていないのだろうか。耐震構造を売り物にするその建物はうたい文句どおりの正確な設計をされ,施工も手抜きはされていないのか。誰しもがもつ不安だと思います。かといって,素人が外部から判断することはなかなか難しい。それは教育についても同様でしょう。 わたしたちもずいぶん多くの教育現場を内側から見てきました。そして残念ながら,ほとんどの教育産業の現場では,その宣伝文句と実態とがあまりに相違していたというのが実感です。むしろ美辞麗句や派手な写真を広告に満載している場所ほど,内部は問題点が多いということが経験上言えます。これは教育産業だけに限らないことでしょう。 しかし’本物’を見分けることができないわけではないと考えます。 内容が空疎な組織の発想する言葉はやはり空疎です。逆に実質の中身のある人や‘場’から出てくる言葉にはやはりおのずと伝わってくるものがあるはずです。 わたしたちはそのような‘場=ば’をつくることを目指したいと思います。 宣伝文句だけではない,中身の伴う教育を行おうとしたときに,やはり大規模組織では限界があるとわたしたちは考えました。組織維持を優先する場所では,生徒本人ではなく,生徒からの利益の数字の方をどうしても見てしまうことになる,という実態をたくさん見てきたからです。 そこで,わたしたちは,やはり’信頼できる個人’でつながろうと決意しました。 ‘信頼できる個人’は,これからの時代のキーワードでもあると確信します。 たとえば,’信頼できる個人’から,直接に食材を届けてもらい,’信頼できる個人’が直接設計施工に関わる住居に住み,そして自分で見定めた,顔の見える‘信頼できる個人’に,子供の教育を依頼する… こういう発想によってではないと,この時代において,安心できるたしかなものは得にくいのではないでしょうか。 わたしたちは,最後の教育の部分を提供することに努めたいと思います。 少年期から思春期にあたるこの10年は,ご存じの通り,ずいぶんと難しい年頃になります。単純に勉強や成績のことではすまない様々な困難が生徒自身にも,親御さんとの間にも生じるでしょう。 わたしたちは,その生徒たちを少年の頃から詳しく知る,教育におけるいわば‘かかりつけ医’のような役割も,ささやかながら果たすことができればと考えております。    数理/言語教室ば   主宰(コンセプト構築) 石橋 英樹

めざすもの

めざすもの 小学3年生から高校3年生までの最長10年間をかけて,「言語力」「数理力」の本格育成を目指します。 読めない,書けない,聞けない,そして考えることができない子供たち いまの子供たちを見ていて,ともかく読めない,書けない,聞けない,そして自分で考えることができないと思いませんか。わたしたちは大学受験の現場で,その種の力が年々あまりに低下していくことに驚いていました。従来では考えられない水準でできない学生が近年は特に目立って増えています。東大や京大を受験するレベルの学生でも同様です。 たとえば,ノートの書き方を見てみると,書いている内容云々の前に,そもそもまともに書けていないことが実に多い。文字がきれいやきたないといった話ではありません。その更に前の段階で,わずか一行の文でもまっすぐに書けない。いきなりノートの真ん中から書き始めてすぐに場所がなくなってもどうして良いかわからずにただ停止している。他人には判読不可能な異様に小さく薄い文字を使って平気で書く,などといった,これまでまともにノートを見て指導をしてもらってきたとは思えない実態がありました。しかもそれが長年月にわたって放置されてきて癖となって固定化しているために,たとえば高校の3年間で矯正することはとても難しい。 こういうノートの書き方に象徴されるような,粗雑な「学習」を積み重ねても,うまく力がついていくわけはありません。これは「読み方」や「聞き方」でも同様ですし,何より「考え方」の習得においては決定的です。 ‘ドーピング’では,やがて成長が止まる   勉強方法についてはより深刻な実態があります。大半の小中学校の塾の現場で,実際上要求されているのは,‘教育’ではなく,合格実績(=利潤)です。所詮,教育と利潤は両立なんかしないとうそぶく関係者を幾人も知っています。  したがって現場の講師は,どうしても短期的な成績上昇を考えざるをえず,そのための最も効率の良い方法である,生徒を教室に長時間詰め込んで,出そうなパターンに絞ってただ次々と反復演習をさせることに専念するわけです。こうすれば,それほど考えなくとも‘反射神経’で,同一問題ならばそれなりに処理できるようになり,‘そこそこ’の点数をかせぐことができます。そしていまどきの中学高校の受験ならば突破することも可能になってしまうのです。  これを業界では,裏で‘ドーピング’と呼んでいましたが,このようなやり方で中学高校に送られてきた生徒は見事に途中で成長が止まってしまいます。しかもこのようなやり方に慣れた生徒は,再び‘ドーピング’を要求し,それによって大学受験も突破しようと考えることが多い。しかしそれでは難関大学を突破することは困難です。 成績上昇の‘魔法’はない   魔法のように一気に,しかもラクをして,実力が上昇するような方法は基本的にはありません。それを喧伝する場所もあるようですが,〝実力上昇〟の部分を〝お金儲け〟に置き換えていただければ,想像できるように,そうそううまい話は転がってはいません。なおかつ,そのような内容を謳う場所の信頼性はいかがなものでしょうか。  そして,仮にそのような方法で短期的に目先の成績が上昇しているように感じても,やがて地道に「本物」の力をつけてきた者たちに追い越されていくでしょう。具体的には,その時期は高校3年生の夏を過ぎたあたりからです。  そのような付け焼き刃の繰り返しの方法では,難関大学の突破は叶いません。むしろその種の学生を落とすような試験問題がつくられるわけです。なぜなら,大学側が欲しいのも,‘ドーピング’頼りで点数を何とか確保するようなタイプの学生ではないからです。これは,難関大学受験の現場にいる人は皆知っていることなのですが,その情報が小学教育の現場まではなかなか届いていないように見えます。 長期的展望 わたしたちが目指すのは,そのような‘魔法’の伝授ではなく,ごく普通の,まっとうな教育です。そのためには,このような悪い癖がつけられてしまう前の段階で始めなくてはならない。そう考えたときに,小学生のしかも中学年(3年か4年)から直接,わたしたち自身でやろうという結論になりました。  わたしたちには,将来にどのような力が必要であるかがわかっています。そしてどのような学習をしてきた生徒が結局は伸び止まるかも現場での体験で直接に知っています。したがって,長期的展望で取り組むことができます。  具体的には,徹底して丁寧に読ませます。きちんと書かせます。自分の頭で最後まで粘り強く考えさせます。それによって,ゆっくりではありますが,しっかりとした力をつけさせることに努めます。そうしてそのような基本的な力が身につけば,あとは高校になったときに,ずいぶんとラクになります。 そしてそのような力がついたことにより大学受験もゆとりをもって突破できることになるでしょう。それは,大学において更に発展した本質的な学問をする準備にもなります。さらにそのような学生こそが,まさしく大学や社会が求める人材でもあるはずです。

難関大学合格

最終的には難関大学への合格を「目標」に,一貫した長期的指導で導きます。 有名中学,高校進学は最終目標にはならない 難関中学や高校の生徒のすべてが難関大学に合格をするわけではないことをご存じでしょうか。少なくない割合の生徒はむしろ次のステップの勉強にうまく適応できずに学校内で落ちこぼれてしまうことは業界内ではよく知られていることです。このような学校で‘落ちこぼれ’となった生徒の学力は,普通の中学,高校の上位の生徒よりもずっと低いことが多いのです。スタートダッシュに一度つまずいた時に,このような学校の場合には優秀な生徒たちに合わせた進度になっているために,遅れを取り戻すのが非常に難しいからです。 したがって,希望中学,高校進学はそのまま「成功」を意味しません。 しかし受験の現場ではそのような実態はとりあえず,そうなってしまった時に悩むことにして,ともかくもこの目の前の受験を突破することが目標になってしまっている「現実」があるのではないでしょうか。特に中学受験においては,いつの間にか本当にそれが唯一の目標と化してしまい,そこで親子ともに燃え尽きてしまうという例もしばしば見受けられます。そうなって学内で,落ちこぼれてしまった場合,その後の中学高校6年間はその子供にとって,大変な‘苦行’になってしまいます。 進学中学,高校によらず,難関大学へ向けた水準で指導 わたしたちの,この『ば』では,進学の中学や高校によらずに,難関大学受験に向けての水準で指導を行っていく予定です。わたしたちは元々,難関と呼ばれる中学高校の学生たちを相手に,学校では足りない部分を補うことで過ごしてきたわけですから,学校の内容よりもある意味で「充実」した中身を単独で提供することができます。したがって,それについてきていただければ,難関大学受験水準まで引き上げることはできるわけです。もちろん,ある程度の「素質」と努力の継続と,なにより意志が前提になります。しかし小,中,高とその都度,学校や担当者が何度も入れ替わってしまう場所よりも,確実に効果も,責任も,そしてそれぞれの子に対する‘思い’も密なものになるでしょう。  通勤通学ラッシュに巻き込まれながら,わざわざ遠方の有名中学高校に通わずとも,地元の中学高校に通いながらでも,受験水準は十二分に保つことができます。逆に言えば,難関中学高校に通っていても,落ちこぼれないようにあるいは上位を保てるようにサポートすることができるわけです。  もちろん学校選びのポイントは,勉強の面だけではなく,環境面や友人やクラブ活動のことなど,他の要素もたくさんあります。ただ,学習面の考慮の負担が減れば,ずいぶんと選択の幅が広がるのではないでしょうか。

寄り道も経験

‘寄り道’もひとつの経験 考えてみれば,小学中学年から大学受験学年まではおよそ10年間の長丁場です。しかも少年期から思春期までのきわめて難しい時期でもあります。途中には反抗期もあれば,だれる時期もあり,恋愛も経験すれば,喧嘩をすることもあるでしょう。親御さんとの関係も変化していきます。その中でまったく乱れずに一心不乱に勉強だけにはげむことはまずありえませんし,良いことでもありません。 年頃に応じた経験はむしろしていくべきですし,それでこそ‘人間’なのだと思います。乱れずに働き続けるさまを,よく「機械のような」という言葉で表現しますが,実際には機械でさえ10年も使えば途中で何度もメンテナンスが必要になる。そのメンテナンスをする者の質と技量とこまやかさ(そして実は‘愛情’の要素も大きい)によって,ずいぶんと差が出ますし,横着なメンテナンスでは耐用年数以下で故障することもあるでしょう。相手が‘人間’であり,ましてや青少年であればなおさらです。 わたしたちは,子供たちに,こまやかに対応をしていこうと思います。それは甘やかすことを意味しません。相応の努力とその継続も要求をします。その努力と継続を当然と思っていただける方にご加入をお願いするつもりです。 ただ長年月の中で疲れたときや,惑ったときには,そこに一息を入れる‘余地’を残した構えで子供たちに対していこうと考えているわけです。そういう視点がある場所であるかないかは,おそらく青少年期の彼ら彼女たちにとって大きな違いとなることでしょう。 もちろん,わたしたちにはすべての子供を完璧に導くことができると断言するつもりはありません。また上滑りの高尚な目的を掲げるつもりもありません。 ただ,近頃ではあまり見られなくなった,地に足の着いた「実直」なスタイルでやってみようと考えているだけです。 そのような趣旨に共感をできる方のご加入をお待ちしております。