子どもを信じること
◆当教室実施講座から田中茂樹先生著『子どもを信じること』(大隅書店刊)も昨秋出版。東京、中日、福井、徳島の各新聞、その他専門誌などで書評や著者インタビューなど続々と取り上げられ、好評発売中。ニュース番組でテレビ放映も近日予定。
◆徳島新聞(12年1月22日)でも掲載されました。
◆これについての、出版までの一年半の間に様々な打ち合わせや検討が重ねられました。
http://surigengo.blog67.fc2.com/blog-entry-154.html
◆石橋の応答文
※編集の大隅氏より依頼され、この著書の原稿を読んで書いたものです。
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「子どもを信じること」を信じること。
今回の大隅氏からの依頼はこの原稿との「真剣勝負」ということでした。それは感想文や批評文を書けということではなく、ましてや添削を意味しているわけではないことは明らかです。たまたまこの教室を舞台(場)の一つとして使っていただいたご縁で、後書きにおいてこの教室や私たちに大きく触れていただいていることに対し、どのような形でご恩返しができるのか。それは表面的な賞賛の言葉を贈ることによってではないでしょう。
それは私の主宰するこの教室にお預かりしている大切な子どもたちに対しても教室の方針のひとつとして具体的に採用できるかということであり、更に言えば自分の子にでもこの方針を適用できるか、ということだと思います。それを念頭に置きながら,この原稿の内容に触れていきたいと思います。
まず、感動をしました。
秀逸な具体例は著者の思いのこもっているものが多く、何カ所かでは読みながら胸が熱くなりました。
たとえば母子家庭の小6生が、母に余裕のできるところまで待って不登校になった話。たとえば、サンタさんは来ないよと言い放つ父の言葉にもかかわらず、朝になってプレゼントを探し続ける子の姿。たとえば、著者自身が診察室で父親にアドバイスをしながらもらい泣きをした後、一刻も早く帰って子どもに会いたくて仕方がなくなった、という気持ちの湧き出し。これまでの多くのカウンセリングの現場から特に印象深いものが選りすぐられているのでしょう。さらに著者自身の子育ての体験例も多く採り入れられており、それが著者への親近感を増す働きと、リアルな形での内容の裏付けになっていると思います。加えて、教える高みからの物言いではなく、同じく子育てに惑う父親でもある者としての率直な記述が共感を呼ぶのだと思います。
次に、解放をされました。
この書は、自分の子どもとどのように接するかを説いた内容のように思えますし、それを前面に出しているかのような記述もあります。しかし実際にこれを読んで得られるのは、子どもとのやりとりのノウハウではありません。また子どもを単純に信じるということでもないでしょう。事実上の最大のテーマとは、親は子どもをどのように愛するか、子どもを愛する(無償の愛)とはどのような感情や構え方をいうのか、ということだと思います。さらにいえば、親は子どもを愛しても(=信じても)良いのだというメッセージかもしれません。たとえば子どもが何度も何度もこぼす牛乳をふきながら、たとえば子どもの脱ぎ散らかしたズボンを毎日毎日淡々と片付けながら、親は何を考えるのか。
この原稿からあえて一文だけ抜き出すのなら、次の箇所ではないでしょうか。
「子どもを信じるということは、いつか言われなくてもズボンを片付けるようになるだろうと信じるのではありません。一人暮らしを始めたら片付けるようになるだろうと信じるのとも違います。ましていつか親に感謝するだろうと信じるのでもありません。ではなにを信じるのでしょうか?この子は愛情をかけるのに値する人間だと信じるのです。」(283頁)
きちんとしつけるのが親の最優先の義務という強迫の縛りをはずれて、存分に愛情をかけても良いのだという言葉は、親である者に解放を与えてくれます。
そして「救い」をも感じました。
子どもに愛情をかけられない(信じられない)親は自分自身も幼い頃に同様に自分の親からの愛情の欠如があった場合が多いということが、たとえば赤ちゃん部屋の幽霊などの記述で示唆されています。
自分が子どもに(無償の)愛情をかけることでその子は救われたとして、親自身はどうなるのか。もはや過去は変えられない親自身はひとり残されるのか。私と同世代でもある親たちのこの姿が実に気になっていました。しかしこの書の射程はそこにまで達します。
子どもを信じる(愛する)ことで子どもが救われる。それと同時に、救われた子どもとの関係を通して安らぎや幸福感を得ることで子どもとの関係における自分も救われる。そうなれば、まだ若かったはずの自分自身の親の、不安に起因する自分への振る舞いを余裕をもって顧みることができる。そのことによって自分の親たちを赦すことができる可能性があります。それは過去を変えるということも意味するのです。それはその親との関係における自分も同時に救われることにつながります。親が救われるということは、子どもにとってもたいへん重要なはずです。この書は結果的にそこにまで達する可能性があるのです。
今回この原稿を読みながら、掛け値なしにすばらしいと感じました。これを必要としている親とそして子どもは世に実に多いだろうと思いました。そしてこの先、多くの親子を実際に救っていくことになるだろうと確信しました。そのような書に関わることができたのも実に光栄な思いでした。
さてしかし。感動し、解放され、救われた考え方を実際に目の前の子どもたちに適用すべきか。これは責任ある立場にある者として、慎重に判断をしなくてはなりません。現場で使うときに不明確な点はなるべくつぶしておかなくてはなりません。重要な部分は特にきちんと考えておく必要があります。重要な部分とは何か。
ひとつには「小言」と表現されている振る舞いの問題です。
親が小言を言うべきではないということはこの書において、表に出ている大きなテーマです。しかしこれについて、気になる点があります。
子どもに対して誰も小言を言ってはならないのか。誰かは言うべきなのか?(放っておいても)誰かが言うということが前提になって、したがって親まで言う必要はないということなのか。(だとしたら、学校や塾はむしろ小言をいうべき役割を託された場にさえなるのかもしれません。)
この検討をするとき、「小言」という表現の問題があります。「小言」には最初から否定的なニュアンスが含まれています。しつけ、と言い換えれば一般的にはましに受け止められますが、この書の「しつけをしない」という文脈ではこれも否定的です。もっと広い意味での「誘導」も否定的立場だと考えられています。表現の問題ではないのは重々承知していますが、これをたとえば、「アドバイス」もしくは「指導」に変えたらどうなのでしょう?「妥当な小言」でもかまいません。肯定的または中立的にきこえる表現に変えたとしたら?それも含めて一般的に否定されるのか。おそらくそうではないでしょう。
たとえば、交通規則などは親が気をつけて指導しなくてはならないとも書かれています。そうなると親が口出しをせずに失敗を含めて見守るべき場面とそうでない場面が出てくることになります。この書に具体的にすべてを列挙することは不可能でしょう。(補遺という形で、もっとたくさんの事例を追加することは可能ですし歓迎もされるでしょうが。)となると親はしばしば自分でそれを判断しなくてはなりません。その「判断」を親はいかに行い得るのか?これは重要な点です。この問題を考えるときに注意すべきことがいくつかあると思います。
まず子どもが自発的にできるようになることと、それが無理なことがあるという点。坂道を駆け出して行く子どもにあれこれ口出しをしなくてもそのうち学んで転ばなくなるという生物的な水準に関わる部分に対し、文化的な水準の部分、たとえば箸の「正しい」持ち方といったことについては何らかの指導をしなくては自発的に思いつくことはできないでしょう。そのあたりの相違の内容の基準についてはこの書ではかならずしも十分に言及されていないとも思えます。(生物的・文化的といった分け方は判断をするときに妥当ではないのかもしれません。しかしその場合は何が妥当な基準になるのか?)
次に経験数の限界について。現代の親という立場の者は子育ての経験数を十分にこなせないことが多いという点です。
親が育てる子どもの人数は数人という程度です。これは習熟を積むには少なすぎる人数でしょう。もちろんそのこと自体は問題ではありません。しかし、その経験数で先ほどの口出しをすべきかすべきでないかの高度な判断を、無数の現場でしばしば瞬時に行わなくてはならないという点は多くの親にとって困難な問題となるのではないか。
これについて他の動物たちも普通にこなしていることだから大丈夫だと言えるのか?他の動物たちにも「文化」的水準まで踏まえた判断を行わなくてはならない場面がはたしてあるのでしょうか?
ここにさらに、子どもたちには能力的にかなりの差があるように見えるという問題がからんできます。
教える職業をやっていて実感するのは、同じ場で同じことを同じように教えても習得の度合いや速度には大きな差があるということです。これは「同じ」環境で育った兄弟でもよく見られることです。一を言えば十を知るといった水準の子もいれば、一応の理解をするために何度も丁寧に反復する必要がある子もいるわけです。しかもここに発達障害という水準の問題がからんでくることもあるでしょう。こうなると一般の親の判断はかなり難しくなります。
明らかに呑み込みのかなり悪い子はいます。そういう子を前にして、これは自分の親としての力量不足の故か、それともこの子の持って生まれた能力のせいなのか。その能力も待てばそのうち人並みに発達してくるのか。それとも何か他の原因があるのでこの子には無理なのか。判断するにも自分はこの子しか育てたことがない。ああ目の前でまたこんな失敗をしている。こんな時にもまったく口出しはできないのか。さすがにこれは「命の危険」がある場面じゃないか?だけど自分自身だってそういう場面で危険を冒した経験はないからほんとうにそうかはわからない。だったらやっぱり口出しをする場面?……親たちの惑いの声が聞こえてきそうです。
以上のような高度な要素を様々に含む「判断」であるとしたら、事実上普通の親が単独で(完璧に)こなすことは無理があるのではないでしょうか。一見大したことのないように思えても、実は経験豊富なプロの技の領域になるのではないか。となると、この書はたとえば料理でいえば、「プロの味をご家庭でも」といった趣のものにあたるのかもしれません。もちろん仮にそうだとしても、これはこれできわめて大きな価値があるものです。なぜなら、ことはかけがえのない子どもに関するものだからです。
ただ本を読むだけで自分もプロになったつもりになる危険性は自覚しておかなくてなりません。素人がつくった勘違い料理と、素人なりではあっても謙虚につくった料理はどちらがましになるかはおのずと明らかでしょう。
この危険性を踏まえた上で、適用できるのか否かを慎重に判断しなくてはならないということが第1点目です。
次に「自発性」そのものを巡る問題があります。
この書では「子どもの自発的成長」を周囲がなるべく阻害しないということが重要なテーマとなっています。もちろん実際には、自発性を阻害しなければ、より(大きく、十分な)成長をするといった文脈で書かれていると思います。このとき、自発的であることと、より成長することは組で語られている印象がありますが、この二つは切り離せないものなのでしょうか。
仮に二つが切り離せるとして、このふたつを「自発的」「十分成長」と呼んでみます。それぞれの反対の言葉として、「誘導的」「不十分成長」としてみましょう。組み合わせは4つになります。「自発的十分成長」「誘導的不十分成長」「誘導的十分成長」「自発的不十分成長」。
このうち、この原稿で理想的とされているのは「自発的十分成長」にあたるでしょうが、そのときに標的とされているのは、おそらく「誘導的不十分成長」にあたるものでしょう。ところが、多くの普通の親や(そして平凡な教師の)子育てに関してのイメージは「誘導的成長」に属するもののはずです。誘導しなくては成長もあり得ないといった立場といえるでしょうか。当然そのとき対になっているのは「自発的(放置的)不十分成長」になります。
一般の親がしつけや早期教育の強迫に駆られるのは、おそらくこの「自発的不十分成長」をおそれてのことだと思います。しかしここでは一般の親と不安を共有したり、親の弱さを揶揄することが目的ではありません。この原稿の内容に絞って考えてみた場合、むしろ「誘導的十分成長」の方に注目すべきです。
はたして「誘導的十分成長」というものは難しいこと、珍しいことなのでしょうか。おそらくそういうことはないでしょう。どんな優れた教育方法でもやはり落ちこぼれ学生は出るように、どんな愚かな教育方法で育てられても一定割合で優れた者は出てきます。同様に、誘導的なやり方からもやはり成長する子は出てくるのではないでしょうか。しかも「平均値」や「歩留まり率」で考えた時に、実は「誘導的」な方が上回る可能性はないのでしょうか?(もちろん、何をもって計るかによってこの値は大きく変わります。成績?学歴?年収?幸福度合い?まさに何を尺度にするかが決定的に重要な点ですし、実はこれを巡る話が本書の中心テーマだと思いますがここでは一旦素通りします。)
もしも誘導的な方が平均値として上回っていたときに、それでも自発的であるべきなのか?現場での指針(対応の基準)とするならば、これも実に重要な点です。
その選択において、もしかすると「成長」よりもむしろ「自発」を優先するのか?それは、一種の「自発原理主義」なのではないか?さらに、子どもではなく、「主義」を優位においてしまう危険性はないか?「成長」ではなく「自発」が優先であると受け止められたり、そのような主義の子育て(や子ども教育)の方針としてどこかの家庭や教育現場が具体化してしまったときに、数々の原理主義が陥っているのと同様な末路を辿らないか。
これは意識しておくべき(場合によっては本書中で言及、警告しておくべき)点であるかもしれません。
加えて、論理的な問題もあります。
この原稿中には、あるサッカーコーチが子どもたちに「自分で考えてプレーするようにという指示を出す」という場面について、その指示の論理的矛盾をやんわりと指摘した箇所があります。
しかしそれと同様な論理的困難が、自発性を重視した子育てついても実は常につきまとうのではないでしょうか。自発的に成長する、伸びる、発現するのを待つという姿勢は、子どもたちにとって事実上「自発的であれ」もしくは「自発的に伸びよ」というメッセージを送っていることになるように思えます。となると、この矛盾を子どもたち(および親)はどう突破するのか。この論理的な矛盾は子どもには理解できないというのでは解決にならないと思います。
ここに矛盾が含まれているならば、論理水準で気づかなくとも、たとえば身体不調などの形で吹き出してくるでしょう。
では破綻が必定なのか。
これについて、別の方向からも考えることができます。
この書の誤読のされかたのひとつとして、子どもたちなんて放置しておいてかまわない、というものが予想されるでしょう。親たちの育児放棄の根拠となりかねない危険性があるということです。もちろんそうではないということが、本書中で何度も形を変えて触れられています。
そこで説かれている親の構え方とは、子どもたちを単に放置するのではなく、むしろ「関心をもって見守っていなくてはならない」というものです。
実に重要な部分です。
これは結果的に自発性をメタレベルで誘導しているという構造になっている。同じ階層での誘導ではないという仕掛けが先の自己言及的矛盾の「解消」をもたらしているように思えます。
「見ながら見ない、見逃しながら見ている」というような構え方は、自発性の促しに関して必須の要素だという認識は十分にしておくべきことです。
以上のような自発性と成長、および誘導を巡る問題や認識が第2点目です。
さらに、3点目。実際の現場での運用という問題があります。
本書における考え方は一般に流通している方針とは大きく相違しています。この種の根本的な変革を迫るものを現場において採用する場合,適用する者と,適用される者それぞれについて運用における困難が予想されます。
まず,適用される者とはもちろん子どもたちです。
一般に子どもたちは親との関係だけで生きているのではありません。家庭だけを生活の場にしてもいません。同様に一人の教え手や,ひとつの学校とだけに関わっていないことが大半でもあります。
いまごろの子どもたちは家庭,学校授業,部活動,塾,更に習い事とスケジュールは毎日びっしりと詰まっています。
各場所にはそこを仕切る,大半は良心的な大人がいて,それぞれがこの子のことを「ほんとうに」思って様々な指示を出します。なおかつ,更に自主的に積極的にこの場に関わってくれることを望みます。
子どもたちは,ある場所で「自分のため」の課題をしこたま与えられた直後に,出口に待ち構えたお付きのマネージャーと化した母親に護送されて,次の場所に向かう。
次はどこ?今度は何だった?そこで課された先週の宿題が一体何であったかの記憶すらおぼろげなままで,必要な一式を詰め込まれたカバンをもたされて,教室の扉を開けて中に押し込まれる。そしてそこには,また次の大人が待っているわけです。
ごく普通の見積もりでそれぞれの場所で出された課題にかかる時間を足し合わせたときに,それが事実上実行困難な値となることも多いでしょう。その場合に子どもたちにはどのような選択ができるのか。
子どもたちは,それぞれの場を仕切る大人の顔を思い浮かべる。さてそのうち誰が一番おっかないのか。(権力が強いのか。)そして,こっぴどくしかられないために,顔の怖い順番に少ない持ち時間から優先的に充てていくということは容易に想像できるでしょう。
その中にもしも,ひたすら誘導をせず,自主的に行い始めることを辛抱強く待つ場が含まれていたとして,実際に子どもたちにとってその場の順位が上がることがあるのでしょうか?たとえその場の課題を行いたいと思っても,もっとおっかない大人との対決なしにそれが困難であるならば,実際には後回しになってもやむを得ないと言えるのではないでしょうか。
この状況においても「見守りながら待つ」という戦略は現実的に有効なのか?
もしも単独の場で有効ではないとすると,子どもたちを取り巻く環境そのものへの変化を提案することが必要になってきます。たとえば,強い誘導を専らとする場へ通うことをやめさせること。となると基本的にいまどきの習い事には行かせないことになるでしょうか。計算塾をやめさせ,スイミングをやめさせ,英会話をやめさせる。・・・・
先ほどの想定の中では,母をいわば誘導側の人間として描きました。しかしここで幸運にも母がこちら側(子ども側,かつ非誘導側)に立つ人,物事のよく分かった人だったとして事態は変わるのでしょうか?たしかにましにはなるでしょう。少なくとも不要な習い事はやめることができる。
あれをやめこれもやめていったとして,しかし学校は?学校もやめさせることが可能なのか?
もちろん不可能ではないのですが,現実的にはなかなか選びにくい選択肢ではあると思います。そして残された学校という場はもっとも誘導的要素で満ちあふれています。なおかつ,そこへ通う子どもたちに対する平均的な対応をするということが多い。
たとえば,文字や計算を早期から教えることよりもまずファンタジーへの感性の育成の方を優先するというのが理想的な順序だとしても,小学入学時で大半が文字を知っているという周囲の現実があった場合に,学校の現場では標準的な生徒に合わせた運用になるでしょう。既にある程度,知っているものとして授業は開始することになるかもしれない。そこで子どもはうまくついていけるのか?同様な理屈はスイミングや計算教室にもあてはまるでしょう。
となると,その運用にうまく合わせられないことにより生じるリスクと,理想的にファンタジーを育成することによる強みの比較になるはずです。そしてその比較をした場合,果たしてどちらの戦略がより「無難」であるのでしょうか。
おそらく一般的な学校において,想定されていないその順序の子どもである場合には,リスクの方が上回る(ように見える)のでないでしょうか?孤立した親にとっては,たとえ物事が見える人であったとしても,自分の子どもだけに単独でそのような方針を採ることには躊躇してしまったとしても無理はないのでないか。なおかつ,それがむしろ妥当であるとさえいえるのではないでしょうか?
ではどのような突破法があるのか。そこには何が足りていないのか?何があれば子どもたちは理想的な形で関わってもらえるのでしょうか?
この点は適用する側についても同様に考えてみる必要があります。
適用する者とは,代表的には学校の教師,スポーツ教室のコーチ,塾の講師など子どもに関わる教え手たち,そして家庭ではやはり親ということになるでしょう。彼らは大半が,自分自身も誘導的な方法で育てられてきている。職場や家庭での「指導」経験もほとんどは誘導型としてのものでしょう。
直接見たこともしてもらったこともないやり方で行うというのは,なかなか困難な挑戦です。なおかつ,その結果がどうなるかの経験的データが少ない(または知らない)場合はなおさらでしょう。
実際に運用ができるのか,ということは極めて重要なポイントです。
どんなに高性能な銃があっても,それを手にした者がたとえば弾の詰め方,安全装置の外し方,引き金のひき方などを知らなければ,竹槍にすら勝てないのではないか。そもそも弾がどこで手に入るかの知識もなければ,最新の銃を文字通り振り回しながら,竹槍とやり合うという図になるかも知れません。
加えて,個々人の習熟や理解の度合いの違いも大きな要素になってきます。一部の教え手は十分な技量があっても,残り大半はそうではないというのは教育現場において普通に想定できる状況でしょう。家庭においてであれば,夫婦の一方には理解があっても,他方やその周りを囲む親戚一同の大半はそうではないという状況にあたるでしょうか。
ではどのような突破法があるのか。そこには何が足りていないのか?何があれば子どもたちに理想的な形で関わることができるのでしょうか?
子どもにとってこのような方針が理想的であるということと,現実の現場において実際に理想的に関わってもらえる,ということは似ているようでいて,かなり懸隔した内容になります。
どんな言葉が方針として示されていようと,子どもたちはその日々を,様々に運用された複数の現場の中で生きているわけです。
子どもたちは単独では救われない。そして実は親子関係単独でも救われることは難しい。その親子関係を支える,周辺の場が総体で整うこと。しかも具体的に効果的に現実に対応した形で。陳腐ではあってもそれこそが突破法になるのだと考えます。
本書で触れられている,本を読むことによって救われる親はほとんどいない,ということの内実はそこにあるのではないでしょうか。
となると期待されることは何か。
本書によって,子どもと親との関係において「子どもを信じること」のありかたは述べられました。これによって,家庭内での親子の関わり方についての具体的な構え方を知ることができました。
それと同様な切実さをもって,教え手の側にも具体的な構え方を示すことが必要なのではないでしょうか。
それはすなわち,「子どもを信じること-教育編-」が期待されるということです。
同時にそれを実践する場も必要になると思います。
そこで冒頭の問いに戻ります。「私の主宰するこの教室にお預かりしている大切な子どもたちに対しても教室の方針のひとつとして具体的に採用できるか」
そもそも本書は,親子関係における子どもへの関わりかたについて書かれたものです。その内容は教育現場においても大いに参考になることが多いわけですが,しかし直接にそのテーマに関してのものではない。
そうすると,この問い自体がずれてしまって成立していないことになるわけです。
では,当教室の役割はいかなるものになるのか。「子どもを信じること-教育編-」を期待しながら,それが上梓される前の実践の場,試行の場としてご協力することが私達の受け持ち部分になるのではないか。
当然それには私自身も含めた人材の限界や,規模の限界なども自ずとあります。ただ同時に,盲目的に信じ込むことや無批判に採用をする水準(実はそのような形ではあまり手助けにはならないはずです。)の人材ではないということと,長い経験を有するスタッフである故に,現実的な案配をしながらの試行もできるのはないかという強みもあります。
それは,さきほどの3つの重要な点。すなわち「小言」「自発性」「運用」も十分に意識しながら行うことになると思います。
このような提案が冒頭の「真剣勝負」に対する主宰としての応えになると思います。
ところで,さきほど触れた3点の項目とは並列ではない重要な1点があります。信じるという根拠はどのように得られるのか、ということです。
今日も粗相をする子どもを前に,今日も散らかしっぱなしにする子どもを前に,今日もまた目の前で何をするでもなくとろけている姿を前に,母たちは何を頼りに小言を止めればよいのか。
自分がここでしくじれば「失敗作」ができあがってしまう。その責任の過半はきちんとしつけられなかった親のせいになってしまう。それでもなお,親がこの子を信じ続けることがいかにして可能なのか。それでもなお辛抱強く待ち続けることができるための支柱になりうるのは何なのでしょうか。
再度引用しましょう。
「子どもを信じるということは、いつか言われなくてもズボンを片付けるようになるだろうと信じるのではありません。一人暮らしを始めたら片付けるようになるだろうと信じるのとも違います。ましていつか親に感謝するだろうと信じるのでもありません。ではなにを信じるのでしょうか?「この子は愛情をかけるのに値する人間だ」と信じるのです。」(283頁)
「この子は愛情をかけるのに値する人間だ」と信じる,という箇所のみが,「片付ける」や「親に感謝する」という有目的な他の文とは異なる階層で突如語られている。しかし足場のないその言葉が、そこに確固としてあるからこそ、ここで語られている理論を構築し得ていると言えるのではないでしょうか。
たとえこの子なりの成長を辛抱強く待つことで「失敗」とみなされるように育っても,たとえ世で理想的とされる子に育たなかったとしても,それでも何も迷うことなく,「この子は愛情をかけるのに値する人間だ」と信じること。
これほどに突き抜けて強い立場,根拠はないのです。
これこそが本書の中核の部分だと思います。本書の子育ての内容は,実はここで下支えすることで成立をしている。
そこで冒頭のもうひとつの問いに戻ります。「自分の子にでもこの方針を適用できるか」という部分です。
そもそも親として様々に足りていないことを自覚しながらの子育てをしている私は,この教室ができることで大きく安堵を得ました。たとえこの先に私個人の不足による困難を子どもが抱えたとして,このば(の関係の皆さん)の力によって,支えられ乗り切っていけるのではないか。少なくとも見守っていってもらえるだろうと。(ここに通う他の親御さんたちにも同様な安堵をささやかながら与えられていればとも願います。)
それに加えて,この言葉です。この教室で講座をひらくことをひとつのきっかけとして書かれたこの言葉によって実に力と解放を与えてもらいました。この解放に後戻りはありません。「この子は愛情をかけるのに値する人間だ」と信じるという立場を知った者は,そうでない状態に戻ることはできないでしょう。
その意味では,適用できるかの問題はここでも成立せず,もはや私は親として「信じて」いるのです。
このようなことは,何にも優る本書「子どもを信じること」の価値ではないでしょうか。
数理言語教室ば主宰石橋英樹
2011.03.14
東北大震災後のいまだ凍てつく夜